小浜歴史探訪 4/6 遠敷と丹生 (但馬史研究会)

Kojiyama/ 7月 1, 2010/ 小紀行/ 0 comments

遠敷川(おにゅうがわ)


遠敷川 鵜の瀬

小浜市のルーツとなった遠敷郷は、遠敷川流域に開けた地域で若狭国府・国分寺が置かれた。
別名音無川、鵜瀬(うのせ)川とも。川筋をたどる道は、古来都と若狭を結ぶ道だった。遠敷はこの地の郷名・郡名でもあるが先ず読めない。
滋賀三井寺さんのサイトに参考になる記事がある。
福井県の新羅神社(3)若狭地方の新羅神社
三、小浜市下根木(しもねごり)に鎮座する白石(しらいし)神社

http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/index.htm

若狭湾に沿って敦賀市、美浜町と続き、その西側に小浜市がある。遠敷郡(おにゅう)といわれた地方である。白石も新羅からの転化であるといわれている。新羅は白木・白城・白子・白石な どと変わる例が多く、ひどい例は今庄町のように、新羅→ 白城→今城→今庄となり、新羅川が日野川に変わっている。当地方には新羅人和氏の一族を始めとする新羅系渡来人が多く住んでいた。

小浜市から国道二七号を滋賀県今津方面に向かう。遠敷郵便局前の信号を右折する。古い家並のすぐ右手に若狭媛神社がある。この神社から約一・五km、遠敷川の清流が巨巌に突き当たり淵をなすところに「鵜の瀬」なる場所があり、「鵜の瀬大神」を祭っている。この巨岩の上に若狭彦の神(彦火火出見尊(ひこほほでみ))と若狭姫の神(一の宮夫婦神)が降臨されたといわれている。二羽の白い鵜が二神を迎えたことが、地名の由来といわれている。彦火火出見尊は彦火火明命(ひこあめのほあかり)であり、山幸彦である。素盞鳴尊の子神で、大和の最初の大王といわれている饒速日(じぎはやひ)尊である。この鵜の瀬は東大寺二月堂「お水取」 行事の源泉である。このお水取の遠敷神社の遠敷明神は、若狭姫神社の祭神・若狭姫神(豊玉姫命)(山幸彦の妃)である。奈良・東大寺二月堂の右横手にも遠敷神社が奉祀してある。東大寺の産土神となっている。

この地名の歴史は古く、「若狭国遠敷郡遠敷郷」などの文字が記された木簡が、平城京跡などから出土している。和銅5年(712)までは「小丹生(おにゅう)」と書かれていたという。つまり丹生とは赤土であり、水銀の原料である
音読みの「おんふ」が転訛したとも言われている。「遠敷」の言葉自体には朝鮮語の「ウォンフー」(遠くにやるの意)に由来するとの説もあり、大陸と接する日本海に面 した場所ならではの歴史を感じさせる。

この説があながち捨てがたいのは、白石も新羅からの転化であるといわれている。新羅は白木・白城・白子・白石な どと変わる例が多く、ひどい例は今庄町のように、新羅→ 白城→今城→今庄となり、新羅川が日野川に変わっている。当地方には新羅人和氏の一族を始めとする新羅系渡来人が多く住んでいた。敦賀(つるが)も角鹿(つぬが)の転訛といわれる。
辛国(からくに)(韓国)神社や、東大寺近くの漢国(かんご)神社(祭神は新羅系の園神と韓神)とも関係が深いといわれている。根来地方に祖神の白石明神をいつき祭って住み着いた人々は、若狭湾や敦賀湾などから入植した新羅・加那系の渡来人であったといえる。

「若狭地方における豪族の中で目立つのは秦氏の系統である。若狭の木簡には秦人の名が多くみられる。
<美々里秦勝稲足二斗、若狭国三方郡耳里秦日佐得島御調塩三斗若狭国山郷秦人子人御調塩三斗>などである。この秦氏が山城の太秦に根拠をもつ秦氏と血縁関係にあったのかどうかは不明であるが、『続日本紀』延暦十年(七九一)九月の条に若狭国で尾張・近江などと共に牛を殺して漢神を祭ることを禁止している記事をみると、牛を殺して漢神を祭るのは渡来人の風習であったので、秦人の中には朝鮮から渡来した人々や子孫が含まれていたことは間違いない」(『小浜市史』)。
ここから南へ一五〇m。「おにゆかわ」橋を渡ると左手に「白石神社」がある。『若狭彦神社由緒記』によれば「白石神社は若狭彦神社の境外社であり、小浜市下根来白石鎮座する。祭神は若狭彦神、若狭姫神を『白石大神』または『鵜の瀬大神』とたたえて奉祀。若狭彦神社創祀の社と伝えるが、年代は不詳」と説明している。境内には椿が群生し、樹高十二・三mの大木は小浜市の天然記念物。

「瀬にしみて奈良までとどく蝉の声」(山口誓子)の句碑がある。
白石神社の本殿は小屋状の建物に覆われているので、一見して神社の建物が見えず異様な感じがするが、外部を覆っている建物の中に入ると、庇に接して木造の彫刻を施した鳥居があり、「白石大明神」の額が掲げてある。本殿の柱などにも手のこんだ彫刻があり、りっぱな社殿である。境内地は広く千坪位ある。前面は遠敷川であり、神社の森の背後は深い山につながっている。遠敷の里は小浜から保坂・今津・大津を経る若狭路、小浜から朽木・大原を経る鯖街道、更には周山街道など、都とのつながりが深かった。当地方は滋賀県の 今津町や白鬚神社で有名な高島町も近い。

隣接の上根来村の社についても同由緒記は、「氏神の御社については、祇園牛頭天皇の由、昔より申伝候。この神の勧請の時分明ならず。更に、本堂本尊地蔵尊也、右地蔵安地の時代不レ知・・・・・・老人口伝云上下宮白石影向後宮居レ堂……建立の由二月毎年勤三修正会於二祇園・・・・・・宝前一毎年五月五日大般若転読す。延宝三年九月廿日別当神宮寺桜本坊秀俊」と記述しており、上・下の根来村が新羅系の神と縁が深かったことが推測される。
下根来から川に沿って神宮寺、若狭彦神社、若狭姫神社(若狭一の宮と呼ばれる)が存在する。
「これらの神社はみなその根は一つで、どちらも根来の白石(新羅)神社からでている」(金達寿『古代朝鮮と日本文化』)という。

この地方には他にも「白石神社」が多くあり、特に上中町熊川村熊川字宮ノ下の「白石神社」は「元々は白石大明神、或いは白石明神社と称し、三社相並べり。境内の白鬚神社は近江より勧請せりと伝わる」(『遠敷郡誌』)。

上中町河内の白石神社について『若州管内社寺由緒記』によれば、「此明神白神楽谷と申所に御座候」とある。白神楽谷は何と読むのか分からないが、しがらく又はしがらき谷かも知れない。そうだとすれば、しらぎからの転化ではないだろうか。
一方で、小浜市は園城寺や源氏との係わりがみられる。中世の小浜市において、寺門(園城寺)と山門(延暦寺)の争いがあり、園城寺が四十町の免田を認められ、賀斗(加斗)荘とし、加納の名目で荘田を拡大したのに対し、延暦寺も菅浜浦や志津浦に進出していた。十世紀のことである。

日本海では朝鮮半島の東海岸を南下するリマン海流が対馬の近くで対馬海流と合流、 山陰や北陸沿岸沿いに北上してくる。この海流を利用して、 古代から大陸の文化が朝鮮半島を経由して日本にもたらされたといわれている。
出羽弘明氏(東京リース株式会社・常務取締役)

(以上)

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